昭和54年4月16日 春季大祭 ●②x2 ⑦ ⑨x2 ⑫ 大坪かよこ
皆さん、おめでとうございます。
信は光なり、光は力なり、と頂きます。
小さい光よりも、それこそ万色光のような大きな光がよいです。
えー、力と言うてもね、百斤持てる力もあれば、千斤も万斤も持てる力が良いです。
今朝からのご理解の中にも、教祖様の御理解の中に、とかく信心は地を肥やせとあります。
ね、地を肥やしておけば 一人でに物ができると仰せられる、ね、常平生からの信心が肝要じゃ、と。
ね、ところがです、毎日日参を何十年も続けておる、一家を上げて信心をしておる、もう何代も続いておるというても、ね、ひとりでに物ができるようなおかげに繋がっていないとするならば、これは、ちょっと考えて見なければいけません。
ね、教祖の神様の御教えの中に、嘘があるとは思われない。
ね、私共は、教祖の神様の御教えの、いうならば、一人一人が、その実証者にならなければならないと私は思うております。
このみ教えは、ちょっとオーバーだ、ね、これは嘘じゃ無いだろうかと、言うようなことがあってよかろうはずはありません。
もう一言一言が、ね、やはり真実のみ教えであると頂かなければなりません。
頂けないのはこっちの信不足であり、こちらの光不足であるということを分からせてもらわなければならない。
常平生からの信心が大事、その信心というのは、ね、そういうおかげの頂けていけれる、しかも、そういう信心が、日勝り、月勝り、それに年勝りにおかげの頂いていけれる、ね、おかげを頂いて教えに基づいた信心生活がでけるということになるのです。
ね、どうでも一つ、ひとりでに物ができるようなものであろうぞえ、と仰せられますのですから、ひとりでに物ができるような、おかげを蒙りたい。
久留米の初代のみ教えの中に、人間の一握りはこれだけなんだけれども、ね、神様の一握りと言うのはどれだけあるか分からん。
私は今日の御大祭を、あの、拝ませて頂きながらふっと、ここの御神前が、こう酒倉になっておるような感じがした。
酒屋さんの、こう、酒の倉庫じゃ無いじゃろうか、ビールが沢山積み上げてある、酒樽が積み上げてある、酒屋さんの倉庫のようである。
とてもとても私がいかに、私が頑張ったからというてでけることじゃ無い。
それこそ神様の一握りと言うものは、もうどれだけあるやら分からない。
まぁ、実を言うと、この、あのお供えは、まぁ、いうなら一部なんです。
ね、おかげでお神酒料とか、お米料とかというて沢山きてますけども、それを出しませんでした。
限りないおかげ、ひとりでに物ができるようなものであろう、というような、私はちょっとした、一つの手本ではなかろうか、見本ではなかろうかと思います。
ね、今朝からの御理解皆さんに聞いて頂いたことでしたけれども、ここで言われる合楽理念ということを、いま盛んに申します。
御祝詞の中にも、そのことを奏上させて頂いた。
これは、助かりの理念、しかも絶対の理念だとして、私は皆さんに聞いてもらう。
そこで皆さんの一人一人は、そういう実をあげて頂くために、いうならば、その合楽理念の実行者、いうなら実験者になって頂かなければならない。
ね、その実験が、実証を生むのです。
ね、いわゆる証なんです。
いかに素晴らしい教えだ、素晴らしいとはいうておるだけではいけません。
ね、私はかく実験し、かく実行させて頂いたら、かくおかげが頂けるという実証をしてまいりませんと、ね、いうなら、私の言うておることがほこになる。
はあ、大坪は大きなことばっかり言う、今日のお祝詞の中にも、ね、天地宇宙の清めのことがございましたね。
世界総氏子、身の上安全、世界真の平和達成の御神願が、どうぞ御成就に相成りますように、という願い。
そういう願いももちろん致しておりますけれども、私は最近気づかせて頂いたことがある。
ね、これは天地とのつながり、宇宙そのものの、との係わり合いというものが、ね、それこそ、歯車がこうおうて回っていくように、合うていかなければ、一つどこかでととまずいたり、まごついたりしたんでは、それこそこの地球も、私共の住んでおるこの世界も、ね、どのようなことになるやら分からないというような、ふぐの念をです、私共は感じるような事実が世界中に、あちらこちらにそういう、事象と言うかね、ものを感じます。
ね、神様は、ね、地球に死相が表れたと頂いたことがあります。
びっくり致しました。
ね、だから、その死相が表れたほどしの現在の地球上のことをです、ね、これに強度のカンフル注射がいるときである。
ね、も、蘇らなければならない、ね、いまのこの地球の、いうなら、蘇りを果たせれるものは、ね、沢山な宗教がありますけれども、そういう実力を持っておる宗教がありません。
教祖金光大神様の御信心による教祖様の御教えを基にする以外には、ありません。
ね、それも、いま合楽で言われておる合楽理念に基ずく外はない。
ね、お商売をするには合楽理念をもってするほかはない、お百姓するのも合楽理念をもってするほかはない、海外布教も、なおそうであるという様にです、ね、立派な教えがあります、ね、沢山の宗教があります、ね、助かっていないということでもないでしょうけれども、ね、ギリギリのところ助からないようになっておるのが、私はいまの、金光教以外の宗教だと思うです。
ね、因縁、輪廻、そして罪だ、原罪だ、ね、または、なら、古神道の上で申しますと、罪穢れ、といったようなことがございます。
と言うようなものを唱えておる、言うておる間は、人間の助かりはありません。
何故って言つて、そういう意味からの、罪穢れなら、もうみんながいっぱい持っている。
○○教で言うところの、罪といったようなものは、みんな、もう、その罪のことを思ったら、人間が助かり得なくなっておる。
ね、は、もう因縁だから仕方がない、は、輪廻因縁が取れない。それは輪廻説からくるともういよいよ、取れないものになってくると。
と言うようにです、ね、教祖の神様は、そういう罪とか因縁とかめぐりとかというのではなくて、ね、一切が神愛だとおときになっておるんです。
一切が神様の、ね、氏子可愛いの御一念が、そういう形に表れておるんだと、喝破しておられるわけです。
ね、例えばなら、私のことを申しますと、あれほど信心しよって大坪さんがおかげ頂きなさらんはずはなか、もう、あれだけ熱心な信心をしござる、しかも一家中で、挙げての信心だから、というのにもかかわらず、次々難儀なことは起こっていった。
兄弟が次々と亡くなる、ね、もうそれこそ長年、家代々させて頂いておったお酒の、いうなら、商売もでけなくなってしまった。
私どもが外地から引揚げて帰ってくると、間もなくでした。
ね、そういうときに私の心の中に感じておった、感じたことは、こりゃ酒屋よりも、もっとよか商売があるに違いはない、とそういうふうに思うた。
ね、わたしはね、そういうおかげの頂けれる思い方をしなければいけない。
これほど信心するのにどうしてこの様なことが起こるのであろうかと思うたら、もうおかげはなし、ね、これは、神様がよりもっと大きなおかげを下さろうとする働きであると分からせてもらい信心させてもろうて、そこを、合掌して受けていくという生き方、ね、あれがもし因縁のために、私が罪を作ったために、ね、私の心が不浄だから、穢れておるからああいう一家中が難儀をした、ね、と例えば、いう宗教があるかもしれません。
昨日もある方から電話を頂いた。
娘さんが足の怪我をした、また妹さんが、ちょっと足に何か落とした、これはね、なんかその神様のご無礼がでけておる、ね、いままで参りよった教会には、お参りをしなくなったから神様がお気付けを下さりよる、というて言われた、という電話がかかってきた。
金光様のご信心はそんなに小さいものじゃ無い、ね、それこそ、おかげを頂かせたいばっかりの、神様の思いの表れであると、分からせて頂くところに、お道の信心があるのです。
そしてなら、今日このように、おかげを受けておるという実証です。
ね、罪のためではなかった、因縁のためではなかった。
ね、ある説きかたをすれば、それは因縁だ、罪だということになるかもしれない、けれどその、罪のおかげで、因縁のおかげで、いうならば、その難儀のおかげでです、その難儀そのものは、もうそれこそ、憎うて当てられ手ではないということ。
可愛いからこそ、おかげを頂かせたいばっかりの神の願いが分からせてもらうときに、そこには、ね、いよいよ新たな大きな道が展開してくるわけ、ね、そして、なら、私共のなら、過去のことから思うて、いまのおかげを受けておる事実を見て、それこそ、ね、ひとりでにものがでけるようなものの、ちょっとした見本のようなおかげを頂いておるという事実なんです。
ね、こういう、いうならば、光を、こういう力を下さることのための、それであったということになるでしょうが。
●⑦ ね、だから、難儀は難儀でない、それこそ難あって喜べ、教祖様は、ね、難はみかげと仰せられた。
四神さまは、難あって喜べと仰った。
金光教の信心はそういう信心なんです。
それを、そのちょっとなんかあったら、もうしおれる、もうその信心が絶えてしまうと、だから、いうようなことでは、いけないことが分かります。
ね、ひとりでにものがでけるといえば、ね、なら、信心を続けてさえおれば、ね、ひとりでにものがでける、は、こんな楽なことはない、それこそお風呂の中にはいっとる様なもの、そういうものではないのです。
ね、私は昨日、一日、私は昨日のことで、またあらためて一つ分らせて頂いたことは、昨日の朝風邪をひいた、それで朝の八時半の御用を、九時ごろまでぐらい御用させて頂いて、もう休んだっきりでした。
もうとにかくどれだけ布団を着ても寒くてたまらん、もうとにかく鼻が出る、咳が出る、もうあの風邪を引いた症状が、一日のうちにみんな表れた感じでしたよ。
だからもう今日のこれがありますから、神様がね、一辺に、こうぱっとその何日もかかるところを、一日で御取り祓い頂いたといったような感じでした。
今朝はもうほんとにすがすがしゅう、朝のご祈念も奉仕させて頂きましたし、また今日のお祭りも、そういう有り難い思いで奉仕させて頂いた。
で、昨日の風邪でそんなことを、まぁ、感じさせて頂いたんですけれども、休ませて頂いておる間、●⑫ 私は何回も何回も繰り返し頂いたことは、和楽の道という、わらじと頂いた。和は平和の和、らは合楽の楽、じはこの路という字、ね、金光教の信心は、和楽の道なんです。
それをまたの教えで、私がいただいとるのを申しますと、ね、えーっとあれは何じゃったかな、和道十全の教えだった。覚えといて下さい、私がこげんわするるから。
金光教の信心はね、和道十全の教えなんです。
ね、いままで沢山な宗教がありました。けれども和道十全ではないのです。
片手落ちなんです。
ね、右と左がたろうてないんです。だから助かることがでけん、真の助かりにならないのです。
先日、その私の椛目の妹がおります。●② お夢にお知らせを頂いたのに、左の手に佐川満男ち書いちゃった。
ね、昔歌手がおりましたよね、佐川満男ち、片一方に、荒川バッテンち書いちゃった。ね、良くあのテレビにでる人でしょう。ね、そういうね、荒川バッテンと佐川満男が足ろうた信心なんです。
ね、十全もう全うした教えということなんです。ね、おかげの頂けるも頂けないのも、我が心、ね、私が頂いておる御教えは、ね、心ひとつですべてを創る、とある。
だから、心ひとつですべてを壊すということにもなうということになる。
●⑨ ね、その心ひとつを大事にする手立てが、日々ここでは説かれておるのです。
ね、しかもその手立てが解いてあるのです。
ね、しかも、ね、それが、実行すると有り難い、楽しい、愉快にまでなれる、ね、というのです。
ね、お互いの、信は光なり、光は力なり、小さい五色光のような光よりも、十色光、万色光のような、大きな光、それだけ沢山な、いうならば、まあ、私が今思うておりますことは、ね、いうならば、天地のことは人間の眼を持て、知りて知りがたきことなのですけれども、ね、人間が幸せになれれる、この地球上の人間が幸福になれれるという意味においての天地、ね、そういう天地のおかばい、調和というても良いでしょう、をね、寸分の狂いもなく受けていけれる道なんです。
ね、そこからね、罪もなければ因縁もない、そういう世界が開けてくる。
いや、苦しいです、ね、ほんとに腹が立ちます、そういうことの一つ一つが、ね、もうとにかく、あなたに、ね、より大きなおかげを下さろうとする働きであると分からせてもろうたら、嬉しゅうなるです。
いやー、神様がこんなにして、鍛えて下さる、受けものを大きゅうして下さる、ね、ほんとになさけないと思うておったが、情けないどころではない、神様に涙がこぼれるほどのお礼が言えれる。
そういうふうにね、私共の、が、段々なれる、しかも小さい光よりも大きい光、小さい僅かばかりの光よりも、沢山な力、ですから、いうならば、この方の修行は、ね、一生が修行じゃ、とこう仰る。
ね、一生が修行、なんかこうきついような感じがする。ね、それが私が昨日、休んでおる間に頂いた和楽路ということである。
金光教の信心は和楽の路である。その和楽の路というのは、ちゃんと布団の中には入っておったり、風呂んどん入っているというようなものではない、もう草鞋履きである。
ね、この草鞋履きであるという信心が、なされなきゃならんのです。
草鞋履き、ね、ひとはまりはまるというときには、草鞋履き。
ね、もうはまりこんどかなきゃいけない。と言うていつも山登りするような、ね、いつもなんか重いもの担いでおるようにというのでは、決してないのです。
それこそ、和楽の道なんです。ね、楽しいんです、有り難いんです、ね、そういう道、和楽の道、けれども、もうとにかく私は金光教の信心によって助からなければ、助かりようはないということをまず分かること。
そして金光大神のお取り次を頂いて、いよいよ神様に喜んでいただくようなおかげを頂きたいということ。
今度、学院生が昨日、一昨日、いつも大祭、今晩、卒業した人達は毎年帰ってくるんですけども、昨日の日曜があったから、一日早く帰えして頂いた。
で、昨日、お届けがあった中に高松和子さんが、お届けを致しております。
ね、帰りに際しましてから、金光様にお礼を申し上げた。金光様せっかくこうやって、お道の教師に御取立て頂きましたが、どうぞ神様、私の、いうなら、高松和子にかけられる神様の願いが、どうぞご成就に相なりますように、というてね、お届けしたら、もうびっくりするような声で「そうじゃ」と仰ったそうです。
ね、天地の親神様の願いが、私にかけられておる、その願いが成就いたしますように、とお届けをさしていただいたら、「そうじゃ」と仰った。
ね、私共は、どうでしょう、私の願いが成就しますように、私の願いが成就しますようにといったような信心であったら、なんなん様も、なんなん教も同じことになるんですよ。
はじめの間は、誰でもやはり、ね、もう今朝からでも、私はもうほんとに、もう、のんと朝の遠隔地、昨日から、泊りがけで見えておられる方たちのお礼のお届けを聞かせて頂きましたが、もうほんとに驚くばかりのおかげのお届けがございました。
ね、ただ、遠隔地の人ですから、月に一回か、おかげの泉を繰り返し読むとか、というようなことですけれども、おかげを受けておる。
ね、だから、そういうおかげを頂いて、神様有難し、ということが分かったら、その神様の、ね、お心が分かりたいということになってこなければならない。
ね、たまにあるますよ。ほんとに神様、どげん思うてござるじゃろうかと、ね、そういうときにです、いよいよ神様の深い心が分かりたい、天地の心知りたし道あらば、示せ天地おのが心に、と神様にただひたすら、一心におすがりをしていく以外はない。
そして、少しでも、神様のご苦労に叶う私にならして下さい、という願いを立てること。
ね、そして、自分を見てみること。これでは神様の心に叶うまい、これではおかげの頂けるはずはないというものを見極めさせてもろうて、ね、それを改めていく。
それを取り除いていく。
ね、そういう精進、この神様はそういうことがですね、限りなく続けられるわけですけども、これを分からなきゃおかげをやらん、ここがでけなければ、ということじゃないです。
ね、皆さんが、そう分からんなりおかげを受けてるでしょう。
今日、あの、玉串を上げられました方なんですけどもね、この頃、十三日会の時に、お届けがあっとりました。
もうとにかくご主人が、もうとにかく、あの、とてもよいご主人ですけれども、お酒を飲んだら、虎狼もじせんというような、いうなら酒乱、酒癖が悪いというのでしょう。
もうこれにはもう、辟易としとりますと。ね、何とか神様のおかげで、おかげが頂けるなら、というお届けをして、帰られたら、その翌日からね、それこそけろっと変わられた。
お酒をいつも、今日はお酒をいらん、ち言いなさる。そげん言いなさらんでん、なら、おビール一本なっとん、ちこうちいうたら、なら、小瓶の方をくれちいうわけ、なら焼酎ば少し上げましょうか、ていうたら、いやー、ちいわっしゃった。
もうとにかく気色の悪うしてこたえん、そして昨日そのご主人と御一緒に、ね、御礼参拝がございました。これ十三日の話し、ね、の話なんですよ。
ね、だから神様の手をもってするとね、もう、一時が万事にそういうおかげが受けられる、もし受けられんのならば、ね、まだ私の信心が足りんのだ、どこにか神様の深い思し召し、御神意があるんだと、思し召しを分かろう、ご真意を悟らしてもらおうという生き方以外にないのです、金光様のご信心は。ね。
ここではほんとにびっくり仰天するようなおかげ皆が頂いておるのもね、そういうおかげがいつもどこのも転がっておるということじゃ無い。
ね、そこに、神の実在、神の働きをね、それこそ、難儀な氏子に示される、分からせるわけなんです。
ね、そしていうならば、神様のお心に叶う、いうなら、神の氏子としての、信心が出けるようになる。
ね、昨日、前夜祭を、私がそんなわけで仕えられませんでしたから、あちらでただおがまして頂きました。
若先生が祭主を仕え、お祭りが終わってから、お話しをいたしとりましたが、その中に、先日から自分がお取次ぎさせて頂いた人の話をしておった。
その方はもう、十五年間、カトリック、いわゆる、に、キリスト様に帰依をされて、洗礼まで受けた方であった。
もうこんな素晴らしい教えはない、こんな素晴らしい宗教はないと思い込んでおった。
大変今まで恵まれに恵まれ続けてきておった方であった。
ところがです、ね、どうにもできない難儀な問題が起こってきた。
ところがキリスト様では助からんことが分かった。
ね、たまたまここから出ておるおかげの泉を読まれた。
ね、それからお参りをされた。何回かお参りをしておるうちに、合楽理念を聞かれるようになり、またそれを実行するようになった。
ね、そして私が助かられるのはもうこの合楽理念以外にないんだ、というようなものが心に、ね、いうならば、○○教で助からないけれども、ならその方が今助かっておるわけじゃ無いですけれども、助かる、この道を行けば助かられるんだと、ね、信じられるということ。
ね、またそれを信じさせれれる教えの内容というものをです、ね、そしてまたここにお参りをしてくるとです、皆さんが助かっておられる、しかも生き生きとして喜びの生活にはいておられる方達の姿に触れたときに、ね、心の中に、いわゆる何と申しましょうかね、希望というですか、ね、心がそういう難儀なことは、難儀なんだけども、そこに生き生きとしたね、有り難いものが生まれてきた、という話しを昨日、若先生が致しておりました。
ね、だから、合楽だよりをするというてもです、ただ私が難儀から助かりたい、ね、これはもうもちろん助からなきゃならん、その難儀そのものがおかげの、いうならば、お徳の母体というても良いのですから、ね、助からなきゃなりませんけれども、助かると同時に、いうならば、信心を分からせて頂かなければならんということでございます。
ね、私がもう口を開けば、もう、合楽の信心は、もう土の信心に極まった、というふうに申します。
●⑨今日、お祝詞の中にも、皆さんがお聞きになったとおりです。
ね、始めて聞いた人はびっくりしただろうとこう思う。
ね、簡単です、明瞭です、しかもおかげが確かです、と合楽のキャッチフレーズにあるように、そのままのおかげを皆が受けておるということ、あれは不思議に簡単明瞭ち言うたら、いかにも簡単明瞭んごたるですもんね。この明瞭ちゅうところが中々ですたい。
明瞭ということを、ほんとに明瞭に分かろうとすると、私が三十年間説いてきたご理解を紐解かなければなりません。
というほどしにです、ね、金光様のご信心は深いんです。
ね、けれども分からんなりんでもです、ね、いうならば、もう合楽の信心は土の信心に極まったんだ、人間は土から出でて土に帰って行くんだ、その道中とてもやはり土の生き方をするということが、一番自然にかのうた、神様の御心に沿う生き方だと説くわけです。
ね、ですからね、その、いわば簡単です、ね、ところが実際に取り組んでみるとね、そう簡単なことはない。
そこで明瞭なところを一つ一つ、詳らかにしていかなければいけません。
ね、そして難儀に対する、ね、それは、難儀ではなくて、即おかげだと、みかげだと、難はみかげ、むしろ難があったら、ありがといございますというて、お礼を申し上げなければならんのだと、教祖様は説いておられます。
難あって喜べ、難はみかげだと、こう言うね、みかげにしていけれる道を、合楽理念は実に詳らかに説きます。
ね、私共はそこが分かりませんから、やはり、それはそうじゃろうばってん、やっぱ苦しということになるんです。
ね、苦しいとは苦しいんですけれどもね、百の苦しみに二百の喜びがでけて御覧なさい、ね、それを差し引くと、喜びが残ることになります。
そして信心を頂いておる有難さ、信心を頂いておる勿体なさ、ね、そういう信心の喜びを自分の心の中に、左手に、いうならば、佐川、さというのは、人偏に左という字が書いてあるね。
合楽の私のこの御結界が左ですから、あの、左のお知らせを頂くと、あの、合楽のことです、ね、ここではだから、右、左にあります。その右左が足ろうていっておる。
あれは頂いておるけれども、これは頂けていない、といったようなものはない。
足ろうた、いうならば、おかげである。
私は今出ようとしよったら、楽人さんがたが皆でお礼に出て来てから、もうそれこそ感動いっぱいで、お礼に出て来ました。
私は今度は、この舞があれは、せいよう、というですかね。あの舞をのぞいても見ませんでした。
だから、それを始めて見る装束をつけているんですよ。二人ながらね、だから、呼吸があっていい舞でした。
ほんとにあの、素晴らしい舞でした。
楽人さんも、もう、思わずやはり、その張り上げ具合がいつもとちごとった。
ね、そして、私んとこ今、お礼に出て見えましてからね、聞かせて頂いたら、あの、よしめの着物はね、昨日、あの綾部さんと福岡の野中さんか、夜どうしで縫い上げられたもんだそうです。
ね、袴はここであの、衣装の、あの商いをしておられます方が持って来たらちょうど良かった。
置いたものを取るようにということはそういうことじゃ無いでしょうか。
ひとりでに物ができるということはそういうようなことじゃないでしょうか。
ね、私は今朝の朝の御祈念の、四時のご祈念のときにはもう、この上が銅板葺きですから、お湿りが、ちょうどご祈念中に始まりました。
あら、お湿りだな、と思わせていただいら、私が最近願っておる、天地清めのこと、ね、●② 天地清めの印を見せる、といただいたです。
もう私ほんとに朝から感動いたしました。
ね、願い、そしておかげ、いわゆる実証、どんなに大きなことを言うてもね、それに実証がなかったら、それは、もう空のものです。
ね、ここの場合は、いうならば、おかげの手本をここに見せながら、そうしてこうありなさいよ、こう願いなさいよ、こう言う生き方になりなさいよ、というのですから、皆さんがその気になればだれでもできるんです。
いうなら皆さんが、本気でわらじ履きになれば、必ず、いうならば、和楽の道が開けてくるんです。
そして分からせて頂くことは、教祖金光大神が教えられた御教えこそ、和道十全の教えであるということをわかるでしょう。
ね、何かが欠けておるなら、その和道十全が欠けているんだ、と悟らしてもろうて、しかもです、ね、一生が修行じゃと仰せられますのも、ちょうど学者がめがねをかけて、年をとっても本を読むようよものであろうぞえ、と仰せられるように、私共のこのわらじ履きの信心というのは、ね、自分の身に、いうなら、光が大きくなっていっておる、自分に力がついておることがはっきり分かる。
だから、楽しんです、有り難いんです、けれどもやはり、わらじ履きという一心を立てなければね、和楽の道は開けてまいりません。
ね、おかげを頂いて、もうそれこそ、安気安穏の生活という意味では決してないです。
わらじです、ね、和道十全の道を、道たらしめれる、いうならば、私どもが実証者にならなければならない。ね、
合楽の皆さんの一人一人が、合楽理念のほんとに実証者にならなければいけない。
ね、合楽に係わり合いをもたれる教会がです、合楽理念の実証教会になってもらわなければならない。
これはもうとにかく、やっぱり教会の、教会長でもなるという方達ですから、一辺帰依しだしたら、もう一生懸命に合楽理念を、そのマスターする、行ずるということになるから、もうおかげがもう、とにかく素晴らしいです。
朝、私が食事をさして頂きよりましたら、椛目の娘がやってまいりました。もう大変嬉しい手紙が来たから、ちょっと読んでみます、というてから、あの読んでくれました。
このごろからここにしばらく、修行に来てましたよね、親子三人で、子供さんがこう、もうなえたような、お教会といや、もう何代目かですけども、ひとっつも人が助からない。そんために寺子屋のように自分のお広前で、近所の子供達を集めて、まあ、寺子屋のようなことをなさっておられる、ということなんです。
それがたまたま、私のあの、愛子と奥さんが同期だったもんですから、ここのものを読まれたりして、親子三人で、見えられた。
あれは、あん時、私がね、こう今の流行の、こうした髭をはやしとんなさいましたですもん、その先生が。
で私は、そん髭ちゅうとが一番すかん、ち私が言いましたら、あくる日はすっぱと剃ってきなさった。
うちのあの久富先生がそうでしたよ。
はじめの間はちょぼ髭立ててですね、はーも、ちょっとこうしちょったですばってんね、私が、ある、当時の椛目に参ってくるなら、髭ば落としてこんなったがいいと、それから奥さんに相談しなさった。
は、パパは、もうそん髭だけは落としなさんな、ちゅうたばってんね、親先生があげん言いなさったから、ちゅちからその、落としてきなさった。
髭はあれだけじゃないですけどもね、どうもなんか威張ったごた感じがするでしょうが。
そしたらね、もう早速、あくる日その子供さんの上に不思議な働きが起こってきたです。
ここで、そいでもやっぱり、合楽があんまり評判が悪かったもんですけん、そのいろいろこう、聞けば聞くで、やはりあの心が乱れる。
けれどもこの頃からもしばらく、ちょっと見えておりまして、是非その、こちらで、せめて一年間でも修行させていただきたいと、もういうならば、これはもう、合楽理念をもってするほかはない、今後の教団、全体がね、合楽理念をもってしなければ駄目だというように、分かりましたとこう言うのです。
分かりましたから、それを実行させて頂いとりましたら、私の心が一辺にどうしてこのように変わるだろうかと思うくらいに変わっておるのに驚いておりますと言うことが書いてあった。
豊かになる、大きくなれる、ね、それが思えた信じれた、ね、途端に心が大きゆうなってきた、というのです。
ね、そういう、あの、私が中近畿にお話に参りましてから、このかたというものは、もう、全国津々浦々の教会から、金光様が、私の大阪行きの時に頂いたお知らせでしたけれどもね、合楽示現活動に参画する、ということをです、ね、中に入って広める、と頂いたんです。
ね、教団の中にもこうやってもう、入りにくいところを、こうやって入っていきよるような感じがします。
ね、私は今度驚きましたが、御本部参拝を、から、帰ってまいりましたら、こんなに沢山、ご本を御本部から頂いて帰ってきております。
その中に、私が三日間のお話しをしとるとの、二日間の、あの、公開講演じゃ無い、青年教師に対する講演と、それから、質疑応答の、もうこんなに厚いご本になっとります。
ね、それがはいってるんです。
結局、日本中の教会に、全部配、先生がたのほうにも来たでしょう。
ね、だから、もう全部の教会に、それが行き渡ったということになります。
ね、あれを読んで見られたら、これは合楽は、あげん、そのまぁ、はっきり金光教じゃ無いようにも言うけれども、これがほんなこつじゃなかじゃろうか、と分かる先生方もできるかも知れません。
ね、もう全国津々浦々に、神様はね、それは実証なんです。中に入って広めると仰せられたが、そういう働きが起っておるという事実がございます。
ね、ですから、なら合楽にご縁を頂いておる皆さん一人一人がです、ね、どうでもひとつ、和道十全の教えであり、金光教は宗教以前の宗教だと、ほんとに合楽理念をマスターしておかげを頂いていったら、他の宗教の全てが、価値観を失ってしまうほどしの、素晴らしいものだということなんです。
ね、ためにはね、その和道十全の教えをいよいよ頂いて、ね、ためには一つ、わらじ履きになって、和楽の道をいいよ、体得させてもろうて、ね、これを一生の修行とさしてもらう、いや、そう一生の修行ということは、ね、いうならば、ね、五色光から、十色光、十色光から百色光という、段々大きな光になっていくということを、ね、有り難いと心得ての信心、百斤持てておったのが、千斤持てれるようになっていくということが、ね、今の先生お話じゃ無いけれども、ね、色々に、とにかく悩みに悩み、研究に研究をさせて頂いて、これは合楽理念をもってする他はないと分かれたときにです、自分の心の中に不思議な、不思議な心が起ってきた。
それは、このような豊かな、大きな心に、今までかってなったことがなかった、まぁ、その手紙を読むと、あの素晴らしい文句で書いてございますけれどもね、それも毛筆で、もう、それこそまあ、私にお届けをしてくれといわんばかりの、お手紙でした。
ね、だから、皆さんの一人一人が、そういう、その気になって、もう自分でもです、たまがるくらいに、自分の心が、いうならば、拝めれるような私、ね、豊かな大きな心にはもう限りがありません。
その限りのない信心と、限りないおかげを目指させて頂いての、信心、おかげを頂いていきたいと思います。どうぞ。